エッセイ

May 09, 2024

カメラ・ショートショートはじめました。

最近、カメラ・ショートショート(掌編小説)をコツコツと書いています。とりあえず10編ほど、電子ブックにまとめてみました。カメラ系の読み物が好きな方、ぜひご一読を。だいぶマニアなカメラネタに全振りしていますが、カメラ好きの人ならニヤニヤと楽しんでもらえると思います。

●M型アンドロイドの恋(抄)

Ma02

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January 04, 2024

写真の行方

祖父の撮った膨大な写真は、もうこの世にない。一葉の写真も残っていない。

祖父はライカ使いだった。ライカ・コンタックス論争で有名な小冊子「降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ」に寄稿していたほどなので、当時はブイブイと言わせたライカ使いだったのだろう。

実家の屋根裏部屋には壁面を埋める大きな本棚があり、すべての棚がモノクロプリントのアルバムで埋まっていた。祖父曰く、「白から黒まですべての階調が揃った写真がいいモノクロ写真だ」という。父がそんな話を祖父から聞いたと言っていた。

祖父が亡くなり実家を売り払うとき、その他の家財道具といっしょにアルバムは処分された。当時、僕は写真やカメラと無縁の生活を送っていたので、写真の行方にまったく興味がなかった。祖父の写真を一度も見ることなく、気づけばそれらは姿を消していた。いま思うと、何枚かでも残しておけばと思う。

でも仕方のないことなのだ。

家族と縁もゆかりもない被写体が写った写真など、残された家族はまったく興味が持てない。だからそれは、仕方のないことなのだ。

これまでの写真をすべてバックアップしたハードディスクの山を前に、そんなことを思った。

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January 03, 2024

内爪ニコンSが出てくる小説のワンシーン

「あなた、内爪ニコンSなんですって?」

桂木さんはそう言うと僕の前に腰かけた。学食にはたくさんの空いた席がある。僕と相席する必要はない。経済学部の学食には日当たりの良い席がたくさん用意されているのだ。それはもうKIPONのマウントアダプターの種類にも負けないほどに。

「学校でそのことは伏せてるんだ。ヘリコイドがないって知られると、いろいろと都合が悪いからね」

学食から学生たちの姿が消えていた。すでにチャイムが鳴っていたのだ。僕らはいつも少し遅れて大切なことに気づく。取り返しがつかないほどではないけれど。

「あたなのこと、試してみたいの」

やれやれ、またその話か。何度カプラーからそう声をかけられたことか。コンタックスCとの互換性の話はウンザリだ。

「僕はゾナーじゃない。ニッコールはゾナーの代わりになれない」

コップのお茶を飲み干し、トレーを持って席を立つ。返却口はすでにたくさんの食器とトレーで埋まっていた。そんな僕の背後から、桂木さんが言葉を浴びせかける。それは僕がもっとも聞きたくない言葉だった。

「フランジバックが同じって知ってるんだから!」

(続かない)

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炎上するならディベートすればいい

またもや炎上している。撮って出しとフルサイズが。

一体何度目だろう。僕のオールドレンズ撮影はRAWストレート現像派なので、撮って出し擁護で議論に参加したくなる。

でもしない。結論が出ないから。

撮って出しとフルサイズ、これらは結論の出ない議題だ。撮って出し絶対主義もレタッチ新自由主義も、フルサイズ保守党だろうとAPS-C解放戦線だろうと、けっして結論が出ることはない。何を言っても反論があり、何を言われても反論できる。

これってディベートのお題目じゃないか。

CP+でディベートをやればいいのに。会場のメインステージで、デジカメ炎上ディベート大会を開くのだ。大御所の先生や業界関係者に登壇してもらい、その場でくじを引いて賛成反対を決める。普段の主義主張は関係ない。どのみち結論の出ないお題目なのだから、くじで決まったポジションでディベートしてもらう。

マイクロフォーサーズを使う写真家のフルサイズ擁護、中判ミラーレスメーカーのAPS-C賛歌、JPEG派報道カメラマンが語るプロの仕上げ論、RAW現像ソフト開発者による撮って出しの主張。

マズイ、盛り上がる予感しかしない。

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世界標準

そのとき初めて世界標準に触れたのだ。

久しぶりの写真展開催だった。会場は新宿マルイ本館の八階。同じ階にスターバックスがあり、一般のお客さんも写真を見てくれる。自分の写真が世間に通用するのか、いい腕試しになる。しかし、隣が免税受付カウンターであることを見落としていた。

外国人のお客さんが多いのだ。

米国人っぽい老夫婦とその息子達。息子のひとりが近づいてきて、こう言った。このプリントを売ってほしい。B0サイズの巨大パネルを指さしていた。このときの写真展はプリント販売していたが、用意したサイズはA3とA4。畳のようなB0サイズの販売は想定外だ。しかも彼はこう続けた。

これがほしい。これを持って帰る。

まさかのお持ち帰りをご所望だ。両親の家の壁にドーンと飾りたいという。老婆が期待を眼差しを僕に向ける。しかしB0パネルを梱包する用意はなく、「これは展示用の非売品です」と伝えて販売を断った。惜しいことをした。

二人目はイケメンだった。北欧出身の俳優ビョルン・アンドレセンみたいな美少年が、マネージャーっぽい男を連れてやってきた。どこぞのモデルかタレントか。放つオーラがすごいことになっていた。背景にバラが見えた。

この写真のデータを売ってくれ。

美少年がそう言うのだ。バラを背景に。すんでのところで「はい!」と即答しそうだったが、どうにか正気を保つ。彼は続ける。自分で大きくプリントして飾りたい。日本からプリントを持って帰るのは大変だろ、と。言わんとすることはわかる。でも、データ譲渡はさすがに無理だ。

美少年が帰った後、スタッフが近づいてきてこんなことを言う。さっきのデータ販売、十万円だったら売りましたか、と。

売る。十万なら売る。

大きくプリントして壁中貼ってくれてかまわない。プリントTシャツにして大量販売したっていい。十万円ならぜんぜん元が取れる。NFTアート、やっておけばよかった。

世界の住宅の壁は広くてデカイ。A4プリント売ってる場合じゃなかった。この日、世界標準に触れた。

 

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February 21, 2023

ChatGPTはライターの水増し原稿

ChatGPTを使って感じたこと。まるでライターが書いた水増し原稿みたいだ。たくさん書いてあるけど何も語ってない……みたいな。「Aを正常進化させるとBに似た側面が見える。しかし、けっしてBそのものになることはなく、AはAとしてのコンセプトを保ちつづける」。要は「AはAだ」を水増ししただけ。

ライターという職業は、「何でもいいから何か書いて」という依頼がけっこうある。プレスリリース1枚だけで製品レビューを書く、なんてこともめずらしくない。特集内容を知らされず、その特集の総論を書くこともある。情報が足りない。製品を触っていないからインプレッションも書けない。当たり障りのない言葉で水増しするしかない。

この手の原稿を書くとき、基本的に主観や独創的な発想は加えない。どんな原稿が求められているのかわからないので、当たり障りのないことしか書けない。客観的な情報と一般論を書き連ねる。「AはAだ」を千の言葉で水増しするのだ。これは特別なことではない。ライターとしての常套手段。既知の情報を当たり障りなく連ね、とりあえず何か書く。この感じがChatGPTから滲むのだ。

ChatGPTはわかることもわからないことも、とりあえず「何か答えよう」という姿勢を感じる。この姿勢が水増し原稿を書くライターにそっくりなのだ。「何でもいいから何か書いて」と頼まれたライターは、全力で「何か書こう」とする。文章力と知識はあるので、どんなことでも何かは書けてしまう。ChatGPTの受け答えを読んでいると、若い頃、文化的雪かきな仕事をやっつけていた自分を思い出してつらい気持ちになる。

一応、ライターという職業を擁護しておくと、こういう水増し原稿でも必ず“キメぜりふ”を考え、内容をキャッチーかつ手早く読者に伝える工夫をする。さすがにサマリーを作るだけでは原稿料はもらえない。細かい部分でライターとしての“独自性”を発揮する。この点はChatGPTとはちがう。

現状のChatGPTは情報サンプリングがベースだろうから、いわゆる独自性は見てとれない。うまく言葉を並べているけど、結局に何も語ってないよね、という感じ。既知のものは上手に生み出す。でも、未知のものは見せてくれない。サンプリングの果てに独自性はあるのか。別の要素が必要なのか。さて、今後はどうなるのだろう。

それはさておき、ChatGPTにカメラの詩を書かせると抜群におもしろいから試してみて。

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April 13, 2022

轟音が降る町


ひなびた漁港を撮影していると、スクーターに乗った地元のニーチャンに声をかけられる。もめ事はいやだなあと身構える。

「何撮ってるんスかぁ」
「このあたりの漁港を」
「漁港?」
「こういうひなびた雰囲気が好きで」
「オスプレイじゃなくて?」
「えっ?」
「勝浦の近くにいい漁港あるっス」
「か、勝浦」

支離滅裂な会話の果て、彼は帰っていった。トラブルにならずに胸をなで下ろす。再度歩き出してしばらく、ドバババッと轟音が空から降ってきた。あわててピントリングを無限遠に合わせ、レンズを空に向けたのがこのカット。オスプレイ、空耳じゃなかった。

Leica M11 + G Biogon T* 28mmF2.8

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April 08, 2022

吉野家の選び方

作例撮りの最中、昼食は吉野家ですますことが少なくない。牛丼並つゆだく。ワンコインでお釣りがくる。15分後には撮影を再開できる。

ただ、店舗によって牛丼の味が異なるように思えるのだ。

煮込みすぎて味が濃かったり、醤油が少なかったり、肉がやけに硬かったり。どのみち、つゆだくごはんでかき込むからどんな味でもおいしくいただくのだが、ただ、「ちがうなあ」と感じることがたびたびあった。そんななか、今日立ち寄った恵比寿駅前の吉野家はばつぐんにおいしかった。

醤油がしっかり染み込むも味が濃くなりすぎない。肉は適度な弾力とほろほろと崩れる柔らかさが同居し、とにかくうまい。吉野家ってこんなにうまかったか? たまたまか!? 周囲を見ると、牛丼以外の凝ったメニューを楽しんでいる人が多い。しかもサイドメニューもつけてかなり豪華だ。明らかに「ここの店はうまいぜ」と食べているメニューが物語る。

恵比寿に撮りに行ったらまた吉野家で食べよう。貼り付けカットは、恵比寿といえばマルジェラ。

 

Nikon Z fc + OKC1-35-1 35mmF2

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March 11, 2022

あとの祭り。

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Leica M11 + TTArtisan 28mm f/5.6

「オールドレンズ解体新書」を校了してから一ヶ月、ひたすらこもって書き続け、やっと脱稿でした。一月一冊、やればできるもんだな。もうやりたくないけど。

そんなわけで久しぶりに撮りに出かけると、お気に入りのスポットが消失していた。ここに古い自動車整備工場があり、とても味わい深い看板が立っていたのだ。しかし、うえの写真の通り、すっかり更地になっていた。もっと撮っておけばよかった……と後悔するのは何度目だろう。これからも何度も同じような後悔をくり返すのだろうな。

持っている人は「ソニーα7シリーズではじめるオールドレンズライフ」の33ページを参照。

 

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February 09, 2021

純文学があるなら純写真があってもいいじゃないか

写真は表現技法として稚拙、という話を知り合いの写真家と議論したことがある。他分野から写真業界に入ってきた人には案外すんなりと受け入れてもらえる話なのだが、根っからの写真愛好家は気分を害するかもしれない。小説、絵画、映画、音楽、さまざまな表現手法ではあたりまえのことが、なぜか写真ではひどくぎこちない。

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●渡部さとる著『じゃない写真 現代アート化する写真表現』

たとえば、「ありのままを撮るべきか、作り込んで撮るべきか」という問題。事実と虚構。写真では永遠に交わることのない両者だが、他の表現分野では棲み分けと融合があたりまえのように行われている。写真の頑な姿勢はどこか稚拙に見えるのだ。

ただこのとき、ふたりともなぜ写真が稚拙なのか、という答えにはたどり着けなかった。得体の知れないモヤッとした感情だけが残った。

先日、渡部さとるさんの『じゃない写真 現代アート化する写真表現』を読んだ。先のモヤッとした感情がきれいに晴れた。もっと言うと、長らく写真について漠然と抱いていた得体の知れない印象が、すべてこの本で明瞭になった。「ライン川2」が4億4000万円で落札された理由、オリジナルプリント販売にまつわる価値創出の不思議、そしていまどきの写真が“わからない”という現象。おそろしいほどのわかりやすさですべての理由が記されている。それこそアカシックレコードを解き明かすような感動があった。

本書は撮りたい人には不要かもしれない。でも、写真の正体を知りたい人には必須の教科書だ。前提として「最近の写真はわかりづらいなあ」というモヤモヤ感があり、著者の歩みに寄り添いながら、そのわかりづらい写真を紐解いていく。上から目線で「写真とはこういうものだ!」と解説するのではなく、著者自身の写真集制作やポートフォリオレビューを通じて、ともに理解を深めていくのだ。語り口がやさしいのでついついページが進み、気がつくと写真の深淵をのぞいていておどろいた。

写真には好むと好まざると被写体が必要だ。純然たる写真を目指すとき、その被写体が妨げになる。写真は被写体に依存する。被写体という呪縛から逃れられない。仮に被写体から解放された写真、被写体不在の写真があるとしたら、それはそもそも写真なのか。

文学には純文学というカテゴリーがある。読み手にこびることなく、文学性だけを追求する文学が許されている。実のところ、最近はあまり元気がないけど。もしかすると、現代の写真は純写真を目指しているのかもしれない。渡部さとるさんの『じゃない写真』を読んで、そんなことを思った。

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