たかが機材名。
機材名の要不要なんて、議論するまでもない。
写真展やSNSで写真を公開するとき、機材名は必要だろうか。こんなことを議論するのはナンセンスだ。機材名という《言葉》を添えるのか、添えないのか。これは撮影者が《機材名=言葉》を伝えたいのか、そうではないのか、という点に尽きる。
単なるコミュニケーションにすぎない。
伝えたいなら明記すればいい。伝えたくないなら書かなければいい。それは当人の問題であって、他人がとやかく言うことではない。強制するようなものでもない。
すきにすればいい。
機材名があれば、その機材を使っている仲間とつながれる。お気に入りの機材を自慢する、というスタンスだってけっこう。機材自慢もカメラ写真の楽しみ方のひとつだ。そんなこと、大人なら誰だってわかっている。
お互い機材を通じて楽しくやればいい。
機材名がなければ写真を純粋に見てもらえる。写真で勝負したいなら、機材名は控えたほうがいいかもしれない。
でも、機材名がないから写真が評価される、という話ではない。
僕の経験で言うと、日本カメラの口絵に掲載してもらったとき、機材名は載せている。撮影データは省略したが、機材名は必要だった。ムックのフォトギャラリーでもあたりまえのように機材名を入れる。作品力で勝負する場面でも、機材名が要求されることはけっしてめずらしくない。
個展では機材名を載せないが、鑑賞者から機材を問われることは多々ある。「写真よりも機材が気になったのだな」と寂しい気持ちにもなるが、それは己の実力不足にすぎない。ただここで重要なのが、鑑賞者は《機材という言葉》で僕とコミュニケーションを取りたいと意思表示している点だ。それに応えるのか、無視するのか。人との交流をどう考えるか、態度が問われることになる。
機材名なしで写真で勝負しろ!
そんな威勢のいい言葉をSNSで見かけた。いま話題の炎上系フォトグラファーの言葉だ。ストイックな姿勢は若い人の心を打つ。ピュアに感じられるからだ。でもそれが、カルトやファシストの常套手段であることを、人生折り返しをすぎた僕はよく知っている。一元的な言葉は人々から迷いを削ぎ、思考停止を促す。
そして壇上の男は言う。私についてこい、と。
これは政治の話ではない。たかが写真の話だ。しかし、自由な写真表現の空間が、カルトやファシズムでどす黒く塗りつぶされる様子を看過できるほど、僕は老いていない。
村上龍「愛と幻想のファシズム」について、こんな論評を読んだおぼえがある。主人公トウジのようなカリスマをもつ独裁者が実際に現れたら、それは全力で叩かなければならない、と。
たかが機材名というなかれ。炎上商法にマジレス、と侮るなかれ。扇動者はいつだって自由を狩りにくる。そうした者が写真界隈に現れたことに、大きな危惧をおぼえる。大好きな写真とカメラが、いつまでも自由であってほしい。
Comments