今だから言えるアノ本の裏話
「作品づくりが上達するRAW現像読本」の裏話を。Windows95時代、はじめてPhotoshopを使った感動をいまでもおぼえている。スライドバーひとつで写真の色や明るさが変わる。すごい時代になったものだと驚いた。パソコンライターにとって、画像編集の世界はとてもまぶしかった。
ただ、どうやって写真を編集すればいいのか、そのアプローチがわからない。何しろこちとら場末のパソコンライター、まだカメラや写真に興味がなかったので、写真をきれいに見せるノウハウがない。画像編集ソフトでできることと、やりたいことの関係がよくわかっていなかった。
いずれ、著名な写真家やライターが写真編集の解説本を書いてくれるだろう。そう思って待っていたのだが、いっこうに出てこない。一応、画像編集ソフトのマニュアル本は出てきた。ただ、どれだけ操作手順をおぼえても、写真編集のアプローチには至らない。手順とセンスはまったく別モノだ。
目の前の写真を分析して、「こういう○○な写真は、××して△△に仕上げよう」みたいな、写真編集の基礎をアドバイスしてくれる本はないものか。ソフトウェアの使い方ではなくて、写真編集を学問として紐解いてくれるような本。写真編集の何たるかを理解できるような本が読みたかった。
時が過ぎ、パソコン誌からカメラ誌に軸足が移った。当時、機種別ムックというのが流行っていて、メーカー純正RAW現像ソフトの解説記事をよく担当した。これは過去形ではなくて、いまもひんぱんに依頼がある。自分の中でも得意な仕事のひとつだ。
あるとき、某出版社からLightroomの解説書を書いてほしいとオファーがきた。当時の自分にとって、Lightroomの解説書は少々荷が重かった。ただ、かつて読みたいと思っていた写真編集の本を自ら書くチャンス、と思うことにした。Lightroomをベースに写真編集の基礎が学べる本を書こうと。
企画書が通り、台割を作り、テスト原稿へと進む。そして提出したテスト原稿が真っ赤に修正されて戻ってきた。自分で言うのもなんだが、27才でライターになって以来、原稿の大幅修正なんて一度もなかったのに。大きなトラブルの予感がした。
ぼくは企画書で提案した通り、画像編集の基礎体力がアップするようなテスト原稿を書いた。ところが版元は、手順だけを載せろと路線変更してきたのだ。作例を読者にダウンロードさせ、事細かに手順を指示。手順によって誌面と同じ結果が出ることを体験させる。要は達成感の得られる本にしろと言う。
達成感だけでは読者が上達しませんよ、読者の画像編集力が向上するような本を目指しませんか、と再交渉する。立て板に水だった。読者が本当に上達してしまったら、それ以上本が売れないじゃないですか? 返す言葉がなかった。達成感は快感。快感を売る本。自分の考えと、深く埋めがたい溝があった。
ライターになってはじめて途中で仕事を降りた。解説書である以上、読者の役に立つものを送り出したい。青臭い考えかもしれない。古臭いのかもしれない。ただ、情報の送り手、本の作り手として、役立つ本という線は死守したい。読者が上達したら本が売れない、そんなことを言う大人にはなりたくない。
さらに数年の時間が過ぎ、玄光社から声がかかった。「RAW現像の本を書きませんか」と。ちょっとぼんやりとした依頼だ。LightroomではなくRAW現像? 先方に確認する。「Lightroomの解説書ですか?」「澤村さんがLightroomを使われているならそれで」。前回のことがあるので、慎重に言葉を選ぶ。
画像編集の基礎を学べる本にしたい。読者に手順を押し付けるのではなく、理解を深めてもらう本にしたい。先方は「それでお願いします」という。本当に大丈夫だろうか。Lightroomのマニュアル本ではないですよ、全機能徹底解説的なことはしませんよ? 「澤村さんのよく使う機能だけでかまいません」。
某出版社はソフトウェアのマニュアル本を作りたかったのだろう。玄光社は写真編集の本を作りたがっている。玄光社となら、前々から思い描いていた本が書けるかもしれない。もちろん、自分が写真編集の基礎を語るにたる書き手かという疑問は残るが、そこはしっかり精進していこう。
こうした経緯で生まれたのが、「作品づくりが上達するRAW現像読本」だ。紆余曲折あったけど、初版以来6回の増刷を重ね、ついには増補改訂版を出す運びとなった。自分の写真編集に対する考えに、賛同してくれる読者がたくさんいたということなのだろう。とても励みになります。
Comments