SNSを見ていたら、写真加工に関するおもしろい投稿を見つけた。長い投稿だったのでかいつまんで言うと、「なぜ人は写真加工の有無について自己申告するのか?」というものだ。「少しトリミングしています」「軽く補正しました」「HDRで処理しています」などなど、写真公開とともに言葉を添える人は少なくない。また、公開された写真に対し、「これはJPEG撮って出しですか」と暗に制作工程を問う書き込みもよく見かける。これらの問題は、突き詰めるとシンプルなところに行き着く。写真加工の善悪。そう、写真加工は良いことなのか、それとも悪いことなのか、という問題だ。
誤解を恐れずにあえて書こう。人は誰もが「写真は無加工であるべきだ」と思っている。撮ってそのままの写真こそがもっともすばらしいと、多くの人は信じて止まない。ぼくらを取り巻くありとあらゆる写真が、すべて加工済みであるにも関わらずだ。
そう、フィルム時代もデジタルになってからも、商業ベースで無加工の写真などありえない。ポスター、看板、書籍、雑誌、ありとあらゆる写真は、その印刷形態や展示形態に合わせて加工が施されている。ページレイアウトに合わせたトリミング、被写体を鮮やかに見せるためのトーン調整、人物写真は瞳の写り込み対策が欠かせない。撮ってそのままの写真を使うことなど、ほぼ皆無だ。
おそらく撮って出しが許されるのは、作例と報道ぐらいだろう。カメラやレンズの性能を評価するための写真は、撮って出しでなくてはならない。報道写真は真実を伝えるという使命のため、無加工であることが望ましい。しかしながら、こうした分野以外、商業用途にせよ作品用途にせよ、写真はほぼすべてが加工済みだ。
にも関わらず、撮ってそのままの写真こそが美徳と、多くの人は信じて止まない。トラディッショナルな写真教室では、トリミングや加工は堕落とすら教えかねない勢いだ。写真をやらない人たちだって、合成と聞いただけで眉をひそめるではないか。
ぼくが写真をはじめたばかりの頃、RAW現像ソフトでひたすらトリミングの練習をした。当時、RAW現像ソフトはSILKYPIXがほぼ唯一の選択肢だったのだが、非破壊編集というやり直しの効く編集環境は魅力的だった。一枚の画像を幾通りにもトリミングし、どういう構図が美しいのか、どんな構図が自分の好みなのか、納得が行くまで何度も作業を繰り返す。色調やトーンも同様だ。画質劣化しない非破壊編集をこれ幸いと、一枚の写真をとことんいじくり倒した。自宅で画像編集できるのはデジタルの特権だ。デジタルカメラとパソコンがあるならば、その特権を謳歌してこそである。そううそぶきつつ、なぜ加工に罪悪感をおぼえるのか。
こんなこともあった。はじめての個展でデジタル赤外線写真を展示したときのことだ。高校時代の友人がギャラリーに足を運んでくれた。一通り写真を見た後、彼は「すばらしい作品だ」と褒めてくれた。友人は写真やカメラに精通していない。デジタル赤外線写真は特殊な処理を行うので、そうした部分を簡単に説明する。赤外線を受光できる特殊なカメラを使い、さらにカラースワップという独自の画像編集を経てこの写真が完成するのだと。友人は苦笑を浮かべ、こうつぶやいた。なんだ、この写真がそのまま撮れるわけじゃないのか。
ここでぼくは、ロバート・M・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」を思い出す。バイクツーリングしながら哲学的思考を展開する奇妙な小説だ。この本の中にこんな一節がある。主人公らがバイクツーリングしていると、友人のバイクが途中で不調になってしまう。友人のバイクはハーレーだったかドカティーだったか、とにかく高級車だ。主人公は空き缶を加工して修理パーツを作り、友人のバイクを直そうとした。すると友人は頑なにそれを拒む。主人公は友人に説明する。これは見た目こそ悪いが、市販の修理パーツとまったく同じ働きをする、と。それでも友人は首を縦に振らない。「俺のハーレー(ドカティーだったかもしれない)を空き缶で修理するなんて、カンベンしてくれよ」と言外に思いを滲ませる。主人公はここで、クオリティーという概念に行き当たる。高級車はちゃんとしたパーツで直すべきという友人の考え。空き缶を加工したパーツも市販のパーツも、ともに同じ働きをするという現実。両者の間に何があるのか。主人公の思索はつづく。とまあ、そんな話だったと思う。
写真についてもまったく同じことが言える。詰まるところ写真にも、クオリティーという絶対値の世界があるのだ。論理的に説明するのは難しいが、誰もが内包する尺度。それがクオリティーである。写真は撮ってそのままの姿こそが理想、加工した写真はニセモノという感じ方。これが写真のクオリティー(絶対的な価値観)だ。この感じ方を根底から、かつ論理的に否定するのは難しい。どんなスタンスの人であれ、写真は撮ってそのままの姿が良い、と思っている。これは理屈ではない。
さて、ぼくらはどうすればいいのだろう。クオリティーという名の心の声に従って、写真は無加工で使うべきなのか。それとも心の声に抗い、加工に手を染めるべきなのか。もちろん、そんな画一的な判断では結論にたどりつけない。写真は素のままであるべきという共通認識を踏まえた上で、個々の表現をどのように表わしていくのか。これだ。クオリティーという実態のない尺度を見据えつつ、その向こう側に手を伸ばす。クオリティーをないがしろにしてはいけない。しかし、クオリティーに振り回される姿も滑稽だ。
答えはちゃんと自分の中にある。加工しすぎたら「やりすぎた」と思うし、どんなに好きなカメラとレンズでも、撮って出しで物足りなさを感じることもある。自分の感じ方に素直に耳を傾ければ、自ずとなすべきことが見えてくる。ただその、自分の感じ方に素直になるのが難しいのだが。