初夏、先生の奥様から書簡が届いた。先生がもうこの世にいないことを、数ヶ月前の事実として知った。先生が亡くなったのは春だった。ひとつの季節をまたいで聞く訃報は、歴史の教科書に載る年表の一行のようだ。死に対する感情を和らげる一方、深く硬くそこに刻まれている。石版のように揺るぎない事実として。
先生はぼくの大学時代の恩師だ。彼のもとでぼくらは日本文学を学んだ。夏目漱石と北村透谷が先生の専門で、学生のリクエストに応じて村上春樹を論じることもあった。作品の読み解き方、文章の綴り方、表現の本質など、様々なことを彼から学んだが、突き詰めて言えば、先生の教えはひとつだ。文章は血で書く。それに尽きた。
先生には三人の弟子がいた。ぼくは末っ子の弟子だった。奥様からいただいた書簡を手に、兄弟子に連絡をとる。急なことでおどろいたよ、と互いに口にしてみるものの、数ヶ月前のことだけに空々しさで歯切れが悪い。ご焼香にお伺いするのは迷惑ではないか、むしろ折を見てお墓参りするのがいいだろう。とりあえずお花をおくって、三人で献杯するか。次兄の弟子の提案で、十数年ぶりに三人で集まることになった。
先生の遺作をテーブルに置き、三人で杯を重ねる。長兄は新聞社のデスク、次兄は月刊誌の元編集長、三男のぼくはライター。大学を卒業して二十余年、先生から文学の本質を学んだ三人が、三者三様で文章に携わる仕事をしている。そのことに先生は満足してくれただろうか。いや、そうでないことを、ぼくら三人はそれとなく察していた。
誰も作家になっていない。
兄弟子ふたりはどちらかと言えば評論畑の人間だった。作家に近い場所にいたのはぼくだ。卒業後も小説を書き、大手出版社の新人賞で最終選考まではこぎ着けた。ただ、志半ばで筆を折った。言い訳は百でも千でも用意できる。とにかくある日、もう小説は書かないと決めた。兄弟子ふたりはそのことを責めこそしないが、逆撫でぐらいは当たり前のようにしてくる。長兄は反論が面倒なほどに正論に正論を重ねる。次兄は酔っ払って支離滅裂に文句を重ねる。こいつらめんどくせえなあ、と思う自分の感情が、二十余年前のそれとまったく同じだった。そのことがたまらなくうれしかった。
別れ際、半年に一度ぐらいは三人で会いたいね、と長兄がいう。また近々やりましょう。そう答えればよかったのだろう。ただぼくは、曖昧な笑みで応えることしかできなかった。先生と三人の弟子、ぼくらがすごしたあの数年間は、あまりに濃密でかけがえがなく、思い出と称するにはまだなお生々しい。だからこそ、ひんぱんに会うのは正直きついのだ。
大学で先生と出会い、はじめて書くことに目覚めた。これは断言できるのだが、先生の講義を取り、先生に見出されることがなければ、ぼくが物書きになることはなかった。学生同士で青臭い文学論を戦わせ、先生から赤字だらけの卒論を突き返され、それでも根拠のない自信は揺らぐことなく、熱い時間だけが満ちていた。それを奇跡と呼ぶことに、ぼくは躊躇しない。世界がどれだけ熾烈であろうとも、あの時間の記憶だけは無敵だ。
小澤勝美先生、ありがとうございました。あの頃より、少しはうまく書けるようになりました。