Rolly ロボット感情共有論
去る9月10日、発表当日にRollyを予約した。デジタル系ライターという職業柄、すでにブツは何度か触っている。そして周囲の評判も知っている。それでも予約した。迷いはない。こいつを買わずに何を買う!? iPod touchよりもRollyだろ(いや、iPod touchも予約したけど……)。なぜそこまで熱くなるのかって? それはこいつが、ロボットの本質を突いているからだ。
【ホビーロボットブームの草葉の陰で】
Rollyは賛否両論、真っ二つに評価がわかれる。「こんなモンただの玩具だ」という否定派がやや優勢。そのファニーなモーションを目にして興味を持った人も、ふと我に返って「おもしろいけど、でもいらない」と冷静になってしまう。たしかにこのRollyってやつは、音楽プレイヤーとしては致命的だ。いまどき1GBフラッシュメモリしか搭載せず、有線ヘッドホンを付けることもできない(Bluetoothスピーカにはなるけど)。要は非ポータブルプレイヤーというところが今日的に致命傷なのだ。なにしろRollyは踊る音楽プレイヤーだから、日常携行品にならない。家で毎日ダンスさせるかというとそれも疑問。要は使用頻度という現実的な問題が脳裏をよぎり、コストパフォーマンスを考えてしまうのだ。さらにiPod touch 8GBモデルよりも3000円高いという価格差も、同時期発売アイテムとして痛いところだ。じゃあどのへんが熱いのかというと、このRollyというロボット的プレイヤー、昨年暮れあたりのホビーロボットブームと見事に呼応しているのだ。
昨年の暮れ、近藤科学が「KHR-1HV」を発表し、それまで数十万していたホビーロボットがアンダー10万円で買えるようになった。他社も負けじとこれに追随。ホビーロボットは低価格路線まっしぐらだ。雑誌、書籍はもちろん、テレビのバラエティ番組にもホビーロボットは登場し、新たなデジタルカテゴリとして急浮上した。来る、来るっ、ロボットが来る! 2007年はロボットで行くぜっ! そんな機運が一気に高まった。
でもそのとき、ぼくは買えなかった。
ホビーロボットを買えばその手の仕事が舞い込む。デジタル系ライターとしてビジネスチャンスだ。はじめたモン勝ち、買ったモン勝ち。先行投資としての10万円は(これまでの死屍累々とした投資を思えば) 十分にペイできる金額だ。それでも踏み切れない。どこかでストップがかかってしまう……。盛り上がるブームを尻目に、ぼくはホビーロボットをスルーした。男の子はロボット好きだ。大人になってもロボットが大好きだ。しかし目の前のホビーロボットは、ぼくらが夢に描いたロボットと、何かが微妙に――むしろ根本的に――異なる。そんなことを漠然と考えているうちに、ホビーロボットブームは終息してしまった。瞬間沸騰した盛り上がりと同じく、おそろしくハイスピードでのブーム終焉……。なぜか? 値段の問題ではない。モーションプログラムの難しさのせいでもない。ホビーロボットは完膚無きまでに、“ロボット”ではなかったからだ。
ホビーロボットは名称こそロボットだが、その実単なるラジコンにすぎなかった。パソコンでモーションをプログラミングするという目新しさこそあるが、組み立ても制御も操縦も、あらゆる面においてラジコンだった。製造元が悉くラジコンメーカーだったということも要因だが、それ以前にホビーロボットは、ロボット的なるものを備えていなかった。ぼくらが思い描くロボット、すなわちイメージとしてのロボットは、果たして操縦ロボットだろうか。むしろコミュニケーションロボットではなかったか。ガンダムではなく鉄腕アトム。機械の操縦を夢見たのではなく、機械でしかないはずのロボットと、まるで人間とコミュニケーションするように交わることではなかったのか。ホビーロボットには残念ながら、このロボット的視点が欠けていた。そのことに意外と多くの人が、そして意外と早く気づいてしまい、ブームは急速に終焉。それがホビーロボットブームの真相ではないだろうか。
あるモノ雑誌編集者がこんなことを言っていた。
「ホビーロボットなんてただの、サーボの塊じゃないか」
吐き捨てるように。
【Rollyは見る者の感情を喚起する】
実はこのことに気づかせてくれたのが、Rollyだった。Rollyはただ踊るわけじゃない。音楽を解析し、曲調に合わせてモーションする。ハードロックならノリノリのダンス。スローバラードなら社交ダンスのように優雅だ。そんな曲に合わせて踊る姿を見ていると、ふと不思議な気持ちになる。「オレが音楽を感じるように、こいつも音楽を感じるのか!?」そんな気分。いうなれば、音楽を媒介とした感情共有だ。機械であるはずのRollyと、音楽を聴いて同じ気分を共有する。これはある種の疑似コミュニケーションじゃないか。
ソニーは「ロボット」という表現にことのほか慎重で、Rollyもサウンドエンターテイメントプレイヤーと位置づけている。ロボット工学的にいえば、ロボットとはセンサーを備えた自律システムであるべきだ。しかしRollyは、知覚としてのセンサーを搭載していない。曲調の解析は内部処理であり、外部の音に反応して踊るわけではない。そういう意味においてRollyは、決定的にオモチャであり、少なからぬ人々が一刀両断してしまう気持ちもわかる。ただ改めて強調したいのだが、Rollyは感情を喚起する。音楽を通じて我々は、まるでRollyとかよい合っているような気持ちになる。技術的にロボットであるか否かが問題なのではなく、我々人間との関係性において、Rollyはきわめてロボット――いわゆるイメージとしてのロボット――的なのだ。
おそらくRollyを購入した人の多くは、ペットに名前をつけるように何か呼び名を考えるだろう。オリジナルモーションを作成して、人に自慢するはずだ。「ほらウチの子は、こんなに上手に踊れるの」と。
Rollyを否定することはたやすい。Motion PlayerとしてのRollyは、きっとすぐに飽きてしまうだろう。しかし、Emotional Playerとしてとらえたとき、Rollyの内包する可能性が見えてくる。ラジコンに身をやつしたホビーロボット。オモチャに宿るロボットの本質。大げさかもしれないが、こんなことを考えさせてくれるデジタルガジェットを、ぼくはこれまで見たことがない。
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