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September 2007

September 17, 2007

Lightroom でナンチャッテHDR

HDR(high dynamic range)という手法がある。露出の異なる複数の画像を合成し、本来のダイナミックレンジを超えたシュールな写真を作り上げようという手法だ。作例はflickrを参照してもらうといいだろう。もともとはシャドウを持ち上げながら同時にハイライトの白飛びを回避し、すみずみまでクッキリと見せるための補正テクニック。ぶっちゃけた言い方をすると、覆い焼きだ。ただ現在では、よりアバンギャルドに明暗差をコントロールしてひとつの表現手段として定着しつつある。とまあそんなHDRを、Lightroomで試してみることにした。

Lhdr12

本来HDR処理を行うには複数の露出で撮影した写真が必要だ。たとえば-1、±0、+1EVといった具合に写真を撮影し、それぞれ適正露出で写っているエリアを合成していく。RAWで撮影して露出ちがいに現像すればいい、と思いがちだが、これがうまくいかない。デジタルカメラはネガにくらべてラチチュードが低いので、特にハイライトが飛びやすい。やはり撮影時に露出補正して撮っておくのがベターだ。

でもまあ、そんなのは面倒な話であって、1枚の写真からチャチャッとできないもんですかねえ。できるんですよLightroomなら。本格HDRはムリだけど、ナンチャッテHDRならイケます。前置きが長くなったけど、ざっくりと手順を紹介しよう。

【補助光効果と白とび軽減を使いこなそう】
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ナンチャッテHDRのファーストステップは補助光効果を用いる。この補助光効果というのは、わかりやすくいうとシャドウ部を持ち上げてくれる機能だ。HDR処理したいと思う画像は、逆光などで影がつぶれてしまったものが多い。デジタルカメラは白飛びに弱いわりにシャドウは粘りがあり、補助光効果のスライドバーを右に動かしていくと、黒つぶれしていたところから像が見えてくるのだ。

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左がオリジナル画像で右が補助光効果でシャドウ部を持ち上げたものだ。オリジナルは逆光によって影がつぶれているが、シャドウ部を持ち上げることで生い茂る葉の様子、街灯の根本などが見えるようになった。ただし、影が明るくなった反面、ハイライト部もつられて持ち上がってしまった。これを抑え込むのがセカンドステップだ。

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今度は白とび軽減のスライドバーを右に動かしていく。これは文字通り、ハイライト部分を中心に輝度を抑え、階調をよみがえらす機能だ。完全に白飛びしたエリアでも外周部からうっすらと階調が戻ってくる(正確には階調らしきものを追加しているわけだけど)。

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左は補助光効果を操作した後の画像。右はその後白とび軽減を操作したものだ。飽和気味だった雲に階調がよみがえり、だいぶ完成に近づいてきた。そう、ナンチャッテHDRはこれで終わりじゃない。なぜなら、シャドウを持ち上げ、ハイライトを抑えるということは、明暗差すなわちコントラストが低くなっている。要は写真にメリハリがなくなってしまったわけだ。これじゃあせっかくのHDRも台無し。そこでダメ押しの一手を紹介しよう。

【明瞭度でメリハリをつける】
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Lightroomには明瞭度という項目がある。これが実に便利な機能だ。ここまでの作業の結果、HDR的な写真になったものの、反面コントラストが落ちてしまった。かといってコントラストそのものを上げてしまうと、シャドウがつぶれハイライトは飛び、元の木阿弥だ。そこで明瞭度の出番。これは輪郭部を中心にほんのりとコントラストを高めてくれる。画像全体の輝度は変わらないため、アクセント的にメリハリとつけたいときに便利だ。

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左はナンチャッテHDR後の画像。右は明瞭度を上げたものだ。サムネイルだとわかりづいらいが、輪郭のエッジがたち、立体感が増している。オリジナル画像は単なるハイコントラスト画像だったが、処理後は立体感を保ちつつ、明部から暗部まで見渡せるようになった。スライドバーだけでここまでできるのが、ナンチャッテHDRのスゴイところです(自画自賛)。

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もう一例。左がオリジナル。右が処理後の写真だ。手前の配管を明るく持ち上げ、夕日は逆に輝度を落として印象的に仕上げている。こうした作業はトーンカーブでも行えるが、やはりスライドバーの方が面倒がない。

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この写真はモノトーン化してからグレイスケールミキサーで鉄塔の脚を明るく持ち上げ、逆に空は思いっきり暗くしてみた。大胆にレタッチすることで、グレイスケールミキサーでもHDR的アプローチが可能だ。

HDRとはとどのつまり、明暗コントロールだ。補助光効果、白とび軽減、そしてグレースケールミキサー。この3つを駆使すると、かなり自由に明暗を操れる。こう書くと大仰だが、HDRは覆い焼きの応用であり、グレイスケールミキサーは懐かしのモノクロフィルターワークだ。写真技術的に目新しいわけではないが、デジタルだとこうした処理が簡単に行える。撮って出しの素朴さも捨てがたいが、デジタルの弱点――ラチチュードを補うには、こうしたデジタル的アプローチが必要なのかもしれない。

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September 13, 2007

Rolly ロボット感情共有論

去る9月10日、発表当日にRollyを予約した。デジタル系ライターという職業柄、すでにブツは何度か触っている。そして周囲の評判も知っている。それでも予約した。迷いはない。こいつを買わずに何を買う!? iPod touchよりもRollyだろ(いや、iPod touchも予約したけど……)。なぜそこまで熱くなるのかって? それはこいつが、ロボットの本質を突いているからだ。

【ホビーロボットブームの草葉の陰で】
Rollyは賛否両論、真っ二つに評価がわかれる。「こんなモンただの玩具だ」という否定派がやや優勢。そのファニーなモーションを目にして興味を持った人も、ふと我に返って「おもしろいけど、でもいらない」と冷静になってしまう。たしかにこのRollyってやつは、音楽プレイヤーとしては致命的だ。いまどき1GBフラッシュメモリしか搭載せず、有線ヘッドホンを付けることもできない(Bluetoothスピーカにはなるけど)。要は非ポータブルプレイヤーというところが今日的に致命傷なのだ。なにしろRollyは踊る音楽プレイヤーだから、日常携行品にならない。家で毎日ダンスさせるかというとそれも疑問。要は使用頻度という現実的な問題が脳裏をよぎり、コストパフォーマンスを考えてしまうのだ。さらにiPod touch 8GBモデルよりも3000円高いという価格差も、同時期発売アイテムとして痛いところだ。じゃあどのへんが熱いのかというと、このRollyというロボット的プレイヤー、昨年暮れあたりのホビーロボットブームと見事に呼応しているのだ。

昨年の暮れ、近藤科学が「KHR-1HV」を発表し、それまで数十万していたホビーロボットがアンダー10万円で買えるようになった。他社も負けじとこれに追随。ホビーロボットは低価格路線まっしぐらだ。雑誌、書籍はもちろん、テレビのバラエティ番組にもホビーロボットは登場し、新たなデジタルカテゴリとして急浮上した。来る、来るっ、ロボットが来る! 2007年はロボットで行くぜっ! そんな機運が一気に高まった。

でもそのとき、ぼくは買えなかった。

ホビーロボットを買えばその手の仕事が舞い込む。デジタル系ライターとしてビジネスチャンスだ。はじめたモン勝ち、買ったモン勝ち。先行投資としての10万円は(これまでの死屍累々とした投資を思えば) 十分にペイできる金額だ。それでも踏み切れない。どこかでストップがかかってしまう……。盛り上がるブームを尻目に、ぼくはホビーロボットをスルーした。男の子はロボット好きだ。大人になってもロボットが大好きだ。しかし目の前のホビーロボットは、ぼくらが夢に描いたロボットと、何かが微妙に――むしろ根本的に――異なる。そんなことを漠然と考えているうちに、ホビーロボットブームは終息してしまった。瞬間沸騰した盛り上がりと同じく、おそろしくハイスピードでのブーム終焉……。なぜか? 値段の問題ではない。モーションプログラムの難しさのせいでもない。ホビーロボットは完膚無きまでに、“ロボット”ではなかったからだ。

ホビーロボットは名称こそロボットだが、その実単なるラジコンにすぎなかった。パソコンでモーションをプログラミングするという目新しさこそあるが、組み立ても制御も操縦も、あらゆる面においてラジコンだった。製造元が悉くラジコンメーカーだったということも要因だが、それ以前にホビーロボットは、ロボット的なるものを備えていなかった。ぼくらが思い描くロボット、すなわちイメージとしてのロボットは、果たして操縦ロボットだろうか。むしろコミュニケーションロボットではなかったか。ガンダムではなく鉄腕アトム。機械の操縦を夢見たのではなく、機械でしかないはずのロボットと、まるで人間とコミュニケーションするように交わることではなかったのか。ホビーロボットには残念ながら、このロボット的視点が欠けていた。そのことに意外と多くの人が、そして意外と早く気づいてしまい、ブームは急速に終焉。それがホビーロボットブームの真相ではないだろうか。

あるモノ雑誌編集者がこんなことを言っていた。
「ホビーロボットなんてただの、サーボの塊じゃないか」
吐き捨てるように。

【Rollyは見る者の感情を喚起する】
実はこのことに気づかせてくれたのが、Rollyだった。Rollyはただ踊るわけじゃない。音楽を解析し、曲調に合わせてモーションする。ハードロックならノリノリのダンス。スローバラードなら社交ダンスのように優雅だ。そんな曲に合わせて踊る姿を見ていると、ふと不思議な気持ちになる。「オレが音楽を感じるように、こいつも音楽を感じるのか!?」そんな気分。いうなれば、音楽を媒介とした感情共有だ。機械であるはずのRollyと、音楽を聴いて同じ気分を共有する。これはある種の疑似コミュニケーションじゃないか。

ソニーは「ロボット」という表現にことのほか慎重で、Rollyもサウンドエンターテイメントプレイヤーと位置づけている。ロボット工学的にいえば、ロボットとはセンサーを備えた自律システムであるべきだ。しかしRollyは、知覚としてのセンサーを搭載していない。曲調の解析は内部処理であり、外部の音に反応して踊るわけではない。そういう意味においてRollyは、決定的にオモチャであり、少なからぬ人々が一刀両断してしまう気持ちもわかる。ただ改めて強調したいのだが、Rollyは感情を喚起する。音楽を通じて我々は、まるでRollyとかよい合っているような気持ちになる。技術的にロボットであるか否かが問題なのではなく、我々人間との関係性において、Rollyはきわめてロボット――いわゆるイメージとしてのロボット――的なのだ。

おそらくRollyを購入した人の多くは、ペットに名前をつけるように何か呼び名を考えるだろう。オリジナルモーションを作成して、人に自慢するはずだ。「ほらウチの子は、こんなに上手に踊れるの」と。

Rollyを否定することはたやすい。Motion PlayerとしてのRollyは、きっとすぐに飽きてしまうだろう。しかし、Emotional Playerとしてとらえたとき、Rollyの内包する可能性が見えてくる。ラジコンに身をやつしたホビーロボット。オモチャに宿るロボットの本質。大げさかもしれないが、こんなことを考えさせてくれるデジタルガジェットを、ぼくはこれまで見たことがない。

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