父と祖父のSuper-Takumar
まだ小さかった頃、おそらく小学校三年生か四年生くらいだったと思う。うちに大きなカメラがあった。長いレンズをつけてファインダーをのぞくと、遠くのものがバッと迫ってくる。シャッターはおりないが、望遠鏡代わりのいいオモチャだった。あれはたしかアサヒペンタックス。かすかにそんな記憶があった。
「むかしウチに一眼レフあったよね」
「いまもある。捨ててない」
そういって父親は整理棚の奥やクローゼットを探し出す。ただ、あのカメラが残っているとは思えなかった。転勤族だった父親は、引っ越しのたびに大量の荷物を捨ててきた。父親だけじゃない。こどもであるぼくらも思い出一掃を余儀なくされた。小さい頃の思い出の品といえば、通知票と卒業アルバムぐらい。そんなもの思い出とはいえない。ミクロマンと超合金のコレクション、あれは残しておきたかった。
「かあさん、あのカメラどこにしまった」
「どのカメラ?」
「結婚記念の」
「それなら下駄箱」
「ああそうだ、下駄箱だった」
アタマを抱えた。仮にも精密機器たる一眼レフが、どうしてよりによって下駄箱なんだ。しかも当たり前のように下駄箱と言ってのける母親と、それを聞いて同じく当たり前のように納得する父親の姿。断じて下駄箱は、カメラに相応しい保管場所ではない。
「ほらあった」
父親が下駄箱の奥から腕を引き抜く。その手には白いポリ袋のかたまりが握られていた。白い――という表現は正しくない。褐色に薄汚れ、どうみてもゴミ同然の扱いだ。それでも彼は満面の笑みを浮かべ、ぼくにポリ袋を差し出す。絶望的な気分でぼくは、アサヒペンタックスSP、世界的なベストセラー一眼レフと約三十年ぶりの再会を果たした。
自宅に帰り、早速中身を点検する。ポリ袋を上からのぞくと、頑丈なレザーケースがふたつ身を寄せ合っている。標準レンズ付きのボディと望遠レンズ。ケースの上からでもすぐにわかった。思い出のなかの姿そのままだ。ケースを開けるとカビ臭く、改めて絶望的な気持ちになる。アサヒペンタックスSPにはSuper-Takumar 50mm/f1.4が装着してあった。望遠レンズはSuper-Takumar 135mm/f3.5だ。SMC(スーパーマルチコーティング)じゃないところが時代を感じさせるが、タダで手に入れたレンズ、贅沢はいうまい。
ボディを手に取りかまえてみる。ファインダーに光はない。シャッターも死んでいる。レンズを外すとミラーアップしたまま動かない。完膚無きまでにジャンク。まあいいさ、そもそもボディに興味はない。
このカメラを思い出したのは、きわめて不純な動機からだ。EOS 20D用にM42マウントアダプタを手に入れたものの、レンズをホイホイと買うだけの金銭的余裕はない。知り合いに古いレンズ持ってる人いないかなあ。そんなことを考えているとき、小さい頃にカメラで遊んだ記憶がよみがえった。ロゴはアサヒペンタックスだったはず。プラクチカマウント機。M42マウントアダプタでいける!
レンズを蛍光灯にかざしてみる。Super-Takumar 50mm/f1.4はチリや黄ばみが気になるが、実用レンズとして使えそう。Super-Takumar 135mm/f3.5をのぞく。視界にモヤがかかる。目の焦点を前後に動かし、レンズ一枚一枚を調べていく。いや、調べるまでもない。カビだ。しかもたっぷりクモの巣状。望遠レンズを机に置き、ため息をつく。クリーニングに出すくらいなら、中古で程度のいいものを探した方が安い。Super-Takumar 135mm/f3.5とボディは捨てるか……。タバコに火をつけ何気なくカメラケースを手に取る。後ろにイニシャルが記してあった。父親じゃない。これは祖父のイニシャルだ。
祖父はカメラ好きだった。父親から聞いた話だが、国内輸入初号機のライカを持っていた――それが彼の武勇伝だ。業界の有名人と対談してそれが雑誌の記事になったこともあるらしい。ことの真偽はわからないが、その初号機と思われしライカの行方なら知っている。
父親がまだ小さかった頃の話だ。寒い冬の朝、寝ションベンをしてしまったらしい。女中が気をきかし、火鉢でぬれた布団を乾かす。数時間後、布団に引火した炎は部屋を焦がし家を焼き、ついには隣の家まで類焼した。焼け残ったライカは賠償金代わりとして、隣人の手に渡る。そして祖父は無一文になった――。
この逸話から、ぼくはいくつかの事実を知ることになる。どうやらぼくの家系は、女中を雇うほどに裕福だったらしい。当時のライカが火災の賠償金になるほど高額だったことを考え合わせると、祖父はそうとう贅沢な暮らしをしていたわけだ。ただ、自分の息子の寝ションベンがきっかけで、彼は無一文になった。誇張なくいっておこう。文字どおり、無一文だ。
金持ちから文無しに転落した祖父は、その後吝嗇家として一生を終える。ぼくは祖父からお年玉をもらったことはないし、どこかに連れていってもらった記憶もない。彼の内に、孫のためにお金を使うという考えは毛頭なかったのだろう。目に入れても痛くない孫でさえそうなのだ。息子に至っては言うまでもない。そのことをカメラケースのイニシャルが、雄弁に、そして残酷に物語る。
そもそもこのアサヒペンタックスSPは、父親が結婚記念のプレゼントとして恩師からもらったものだ。これをプレゼントした人はきっと、新しい生活の記録をこのカメラで撮りなさいという気持ちで贈ったにちがいない。世界的ベストセラー一眼レフとSuper-Takumarのレンズセット。おそらくEOS Kiss Digitalのレンズキットよりも格上だ。父親は写真とまったく無縁の人だが、恩師の気持ちはことのほかうれしかっただろう。なにしろ「結婚記念にカメラ」という発想がすてきだ。
ただ父親は、このカメラで一枚も写真と撮っていない。どうせ写真に興味はないだろうと、祖父が取り上げてしまった。代わりに手渡されたコンパクトカメラは、一ヶ月もたたずに壊れてしまったという。
「カメラだけじゃない。結婚祝いは金からモノまですべて没収」
これまで幾度なく聞かされた父親の恨み節だ。祖父いわく、これまでかかった学費を返せ、ということらしい。結婚祝いの品で唯一手元に残ったのは、大学のゼミの人たちから贈られた一輪挿しだけだという。その一輪挿しはぼくが反抗期に、木っ端微塵に割ってしまった。ごめん、おやじ、知らなかったんだ。
ペンタックスSPとSuper-Takumarは、その後十年ほどして父親の手元に還ってくる。シャッターがおりない状態で――。返したんじゃない。壊れたから押しつけただけ。
そんなことも知らずにぼくは、ペンタックスSPを望遠鏡代わりに遊んでいた。父親はカメラで遊ぶぼくを見て、いったいどんな思いだっただろう。写真に興味のない人とはいえ、やるせない気持ちだったにちがいない。だからこそこのカメラは――下駄箱のなかとはいえ――幾度の引っ越しを乗り越え今日この日まで、捨てずに父親の手元にあった。
撮ってみるか。
EOS 20D + Super-Takumar 135mm/f3.5
Super-Takumar 2本とEOS 20Dで出かける。チリも黄ばみもクモの巣状のカビも気にせず、とりあえずシャッターを切る。RAWデータをパソコンに取り込み、思わずうなる。彩度もコントラストも低い。SILKYPIXでゴリゴリといじり倒す。銀塩時代からのカメラ愛好家は過度のレタッチを嫌うようだが、デジタルからカメラをはじめたぼくは一向に気にしない。発色や調子はレタッチでどうにでもなる。デジタル時代のレンズ性能差は解像力のみ、とまではいわないが、躊躇なく画像をこねくりまわす。
EOS 20D + Super-Takumar 50mm/f1.4
だが、いつもと勝手がちがった。どれだけ彩度を持ち上げても、どれだけシャープネスをきつくかけても、いまどきの絵に近づかない。単層コーティングのレンズはこういうものなのか。ならばとセピア調に変換しても落ち着きがわるく、レトロタッチな処理は受け付けない。あえていえば昭和の空気感から離れようとしない。現代でもない。近代でもない。ヴィンテージな懐かしさや温かさもない。どの写真も魂が抜けていた。喪失感――少し近づいた気がする。虚無――きっとそれだ。
EOS 20D + Super-Takumar 135mm/f3.5
父と祖父の確執が、ぼくにそうした写真を撮らせるのか。故意に薄ら寒い被写体を選んだつもりはない。明るい日射しを浴びた花でさえ、生気が抜け落ち白蝋のようだ。一枚も写真を撮らなかった父。趣味のために息子からカメラを取り上げる祖父。そして躊躇なくレンズの味を踏みにじるぼく。写真は「真実を写す」と書く。目の前の事実ではなく、撮る者の、内にある真実を写しとる。きっとそういうことなんだろう。
ためしにGoogleで、祖父の名とライカで検索をかけてみた。雑誌のインタビュー記事にはたどり着けなかったが、「降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ」という抜き刷りがヒットする。1936年、アサヒカメラ誌上でライカ vs コンタックス論争があったらしく、その抜き刷りなかで祖父は、ライカがいかにすばらしいカメラであるかを熱く語っていた。
祖父はペンタックスSPとSuper-Takumarで、どんな写真を撮ったのだろう。ぼくは祖父の写真を一枚も、見せてもらったことがない。
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