ファンタジーとミステリーの境界
伊坂 幸太郎「オーデュボンの祈り」を読んだ。
村上春樹のファンタジーは、読んでいるうちに自分の立脚地が揺らいでくる。正体不明の不安感、この心地悪さがヤミツキだ。しかし伊坂幸太郎のファンタジー(ミステリー!?)は論理的である。世界観がどことなく村上春樹的ファンタジーなのだが、不思議を不思議のまま投げ出さず──現実的ではないが──論理的な解釈がすべてに付随する。それが伊坂幸太郎のおもしろいところだ。
「オーデュボンの祈り」を数ページ読み進めたとき、真っ先に思い浮かんだのは村上春樹「羊をめぐる冒険」だった。未来を見通すしゃべる案山子、鎖国状態の孤島、無名性と無機質が支配する日常。物語の世界はストレートにファンタジーだ。しかし、すべてに明確な理由がある。しゃべる案山子の物理構造、現在もなお鎖国にいたる歴史的事実、どことなくリアリティに欠ける日常の秘密(ネタバレになるので伏せておきます)。これらが徐々に、時に唐突に解き明かされ、読む者を引き込んでいく。ファンタジーを覆う不思議の数々に、リアルな理由が付随するとミステリーになる──これは大きな発見だった。
内容も濃い。ミステリーにありがちな謎解きに終始するのではなく、悪(黒)と善(白)の葛藤、ねずみ色に入り混じる現実が、物語に深みを与えている。ミステリーというエンターテイメントのフォーマットを借りながら、そのモチーフは実に純文学的だ。
しかし、物足りなさがないわけではない。
ミステリーである以上、物語に破綻は許されない。事実、本作品は見事なまでにすべての謎が解き明かされ、読後の爽快感を演出している。矛盾がない。破綻がない。そのことが最後の最後で物語を浅く終わらせてしまっていた。人の営みとは白黒割り切れないものだ。しかし、本作品は勧善懲悪──もちろん典型的なものではなく、歪みとリアリティを備えているのだが──が支配している。結末を迎え勧善懲悪が浮き彫りになったとき、やはりこの作品はエンターテイメントなのだと実感した。もちろんそれはわるいことではないのだが、物語の途中、真理を串刺しにするような切れ味のいいセリフが連発していただけに惜しまれる。とはいえ、小説の醍醐味は存分に堪能できるはず。福井晴敏「亡国のイージス」以来、久々にガツンときた。